メッセンジャー:仁科宣雄師
「恐れからの解放」 (創世記 32章 21~32節)
本日の御言葉(詩篇 34篇 4節)
わたしが主を求めると主は答えすべての恐怖から私を救い出してくださった。
私たちは毎日、様々な恐れの中で生きていますが、聖書が記す終末の預言を聞く時には、信仰がなくては恐ろしいだけの人生になってしまいます。主は、どのような恐れにも目を背けることなく、乗り越えていくことのできる力を与えてくださるお方です。
Ⅰ.神の時 (32章1~21節)
神の約束である「神の祝福」を父と兄のエサウをだまして得たヤコブは、伯父ラバンの家に避難します。「しばらく」の予定が20年・・・「この地を去り、故郷に帰りなさい」との御声を聞きます(31:13)。ヤコブの計画ではなく、神が帰る時を備えておられました。大家族の中での居心地の悪さと複雑な人間関係の中で、ヤコブは心痛める毎日でしたが、ラバンを通して、かつての自分の汚れも見せられます。神は、彼が他人の悪行を受け止める器になったことを認め、次のステージに進む時を与えたのでした。
Ⅱ.消えることのない恐れ (31章)
帰郷の旅を進めるヤコブの前に突然、神の御使いの軍勢が現れたのです。そこを「マハナイム(=二つの陣営)」と呼ぶヤコブは、後ろ盾としての勇気をもらいました。また、神の聖なる臨在に触れ、兄との問題と自分の罪に正面から向き合う決心がついたのです。ヤコブはエサウの好意を得ようと使いを送り、自分が帰郷すること、決してエサウの財産に甘える気持ちはないことを伝えさせます。帰ってきた使いから、エサウが400人を引き連れてこちらにやってくると聞いたヤコブは非常に恐れ、不安になります。そこで、仮にエサウに打たれても、逃げられるように宿営を二つに分けたのでした。と、神の臨在を体験したものの、なおも臆病でした。しかし、神の御前にへりくだり、心の底を包み隠さず打ち明けて祈ったのです。このように祈り終えたヤコブは兄への贈り物を周到に用意します。
Ⅲ.最後の戦い (32章22~32節)
「闘争」続きのヤコブの人生でしたが、最後に「ある人=神の御使い」と戦います。ある夜、突然、「ある人」が現れ、夜明けまでヤコブと格闘したのです。神の御使いはヤコブに勝てないのを見て取り、ヤコブのももの関節を打ったのです。それは神の御使いが、ヤコブが祈りながら、自力で頑張っている時には神は働けないと言うことです。それでも必死で御使いにいどんでくるヤコブに、致命傷となるももの関節をはずしたのです。去ろうとする御使いに、ヤコブはなおも「自分を祝福して欲しい」と必死に願います。兄との問題は主にゆだね、自分にとって本当に必要な神の祝福を求めているヤコブの姿です。新しい名前「イスラエル(=神は戦う)」を与えられたヤコブは、直接神と戦ったその所を「ペヌエル」と呼びました。もう以前の恐れはありません。自ら先頭に立ってエサウの前に進んで行き、兄の前に7度もひれ伏し、自分の気持ちを表したのです。エサウの心も神によって変えられていました。エサウは走ってヤコブを抱きしめ、首に抱きついて口づけします。こうして二人は涙の再会をはたし、和解が与えられたのです(33章3,4節)。 クリスチャンとして本当に恐れるものは、私たちの心の中を見分けることができる神であり、その神は私たちを生かしも殺しもすることができ得るのです。神が私たちの罪を示されるのは裁くためではなく、赦すためです。その罪を清算して新しい人生、神の祝福の豊かさをいただきましょう。そのために主は十字架の罰を受けてくださったのです。
結 論
私たちの恐れは自分の力ではなく、神ご自身が戦って解放してくださる恵みを信じましょう。今生かされている所を「ペヌエル」とし、すでに私たちの戦いを勝利してくださっている主の御顔を礼拝する体験を重ねてまいりましょう。