メッセンジャー:仁科宣雄師
「真に恐れるべき王の王」 (マルコの福音書 6章14~29節)
本日の御言葉(マタイの福音書 10章28節)
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。
むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を 恐れなさい。
アメリカ大統領のジョン・ケネデイー氏は「世界中のわが同胞諸君、アメリカが諸君のために何をしうるかを問いたもうな。人類の自由に対して、我々が共に何をなしうるかを問いたまえ」と、当然の権利「自由」を得るためには、国民の力が必要であり、そのためにリーダーとして働くとの責任ある言葉です。
Ⅰ、「洗礼者ヨハネ、殺される」
イエスに遣わされた弟子たちは、各家を回って伝道しています。そして30節では、帰ってきてその報告をしています。その間に記されているのが今日の箇所です。イエスの先駆けとして神の国を広めていたバプテスマのヨハネが「殺された」というインパクトが強いこの事件の犯人は明らかで、またそれが国家権力のもと、何事もなかったかのように過ぎ去られていました。それを今、ここで書き記されている意図がありました。
Ⅱ.世の王の権力
ヨハネを殺した犯人は「ヘロデ王」。彼は、イエスがお生れになられた時に登場するヘロデ大王の息子です。「王」と言っても実は「雇われ領主」であり、ローマ帝国の前では、何の権力もありません。しかしこの時、ガリラヤにおいては「王」としての権威をもってヨハネを殺し得たのです。ヨセフに彼らの夫婦としての罪を指摘され、ヘロデ以上に妻のヘロディアの強い殺意があっての出来事でした。
こうしてバプテスマのヨハネの言葉=神のことばを殺すことができたのは、明らかにこの世の王の力でした。そして、さらにキリスト教会は、この世の権力と向かい合った形で殉教の歴史を重ねながら伝道を続けなければならなかったのです。日本における伝道も幕府の権力の激しい弾圧の中で、神のことばが繋がれてきたのです。
Ⅲ.世の権力に屈しない神のことば
なぜ、過去のニュースがここで記されているのか・・・弟子たちは自分たちの「定め」として、この話を受け止めたのです。それはただ、権力者の前には、無力で、口を封じられ、殺されてしまう、だから覚悟しなさいと、権力者に対するおびえを語ったのではなく、また反対に、開き直ったのでもないのです。この世の権力者に対して「あなたがたはわたしたちの肉体を殺すことはできる。しかし、私たちが語り、私たちを生かす神のことばはつながれることもないし、殺されることもない。だから、恐れずして神のことばを伝えて行こう」と言うことを確認し合ったのです。
ヨハネの忠告にヘロデは殺意を持ちましたが、同時に神のことばとして受け入れるよう導かれています(:20)。ヨハネの言葉に、ヨハネ、神の愛情を受け止めることができたのです。これが聖霊のみわざです。同じ言葉の中であっても、神が働いておられるかどうか…、ここに祈りの必要があるのです。
王として罪を問われることはなかったでしょう。しかし、今、主イエスのことばを聞いて、彼は、あのヨハネがよみがえったと恐れたのです。ヘロデの中にあの時のヨハネの言葉と同じ響きがよみがえってきたのです。この後ヘロデがイエスに会うのは十字架を前にしてです。「会いたい」と言いながらも自ら会いに行くことはなかったのです。
結 論
信仰者として生きると言うことは、決して名誉ある英雄になることではなく、殉教をも強いられるほどに、神のことばを信じて従っていくと言う生き方です。神のことばには私を支え、生かし続けるほどに力があることを信じるからこそ、従うことができるのです。この神を私の王の王、主の主として崇め、賛美してまいりましょう。