メッセンジャー:仁科宣雄師
「祝福されたいのちのパン」 (ヨハネの福音書 6章1~15、22~40節)
本日の御言葉(ヨハネの福音書 6章35節)
わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを
信じる者はどんなときにも、決して 渇くことがありません。
一時ブームになった高級食パン…美味しさを求めて長い列ができました。が、毎日の必需品とはならず、そのブームも去ったようです。4つの福音書のすべてに記される今日の記事は、生きるために欠かせない「パン」を通して、祝福された「パン」を食する恵みが記されています。
1.弟子たちへのチャレンジ (6章1~15節)
群衆がイエスの「しるし」を見ようと押し寄せる中、イエスは彼らに食事をと、弟子たちに提案します(5節)。これは、弟子たちの信仰を試した、チャレンジでした。ピリポはすぐさま計算し、絶対無理と結論します。アンデレは、お弁当を持つ少年をイエスのもとに連れて行き、「これだけでは何になりましょう」と言いつつも「5つのパンと2匹の魚」をイエスに差し出しました。イエスはそれを感謝して祈り、男性だけで5000人、その倍はいるでしょう人々に分け与えたのです。するとそこにいた全員が食べて満腹したというのです。さらにパンくずを集めると12の籠にいっぱいになったのです。イエスは、弟子たちにあり余る祝福を見させ、主の隣にいて人々に神の恵みを分けあう当事者となるようにと教えられたのです。その場にいた大人たちは当然、自分の食べる分は持っていたでしょう。が、分け与える喜びを知らなかったのです。一方少年は日々の生活の中で分け与える喜びを知っていたのでしょう。指し出すことができたのです。
私たちも葛藤を覚えるようなことがあっても、神は私たちが乗り越えられないチャレンジを与えることはありません。たとえ小さなものでも、イエスのもとに差し出せば、神は祝福して豊かに満足させてくださるのです。
Ⅱ.天からのまことのパンなるイエス (6章22〜33節)
イエスは、この「しるし」を見ても彼らの心が「神」を求めていないことを見抜いておられました。彼らが求めているのは胃袋を満たすパンのことであって、魂を満たす神のことではないと核心に触れ、彼らに「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」と命じます。そのためには何をするべきでしょうか?と規律を守って得ようとする彼らに「神のわざを行う私を信じなさい。わたしのもとに来なさい」とおっしゃるのでした。わたしこそ、あなたがたが求めている神のみわざを行う「しるし」であり、天からのまことのパンであると宣言されたのです。
Ⅲ.イエスを信じる祝福 (6章35~40節)
イエスが与える「いのち」とは、真に生きることであり、真に生きるとは神とのあるべき関係に戻ることです。天地創造において神が人を愛し合う存在として創造された時、神はエデンの園に住まわせ、愛の関係、信頼、親交、従順において豊かで喜びに満ちた毎日が備えられていたのです。それを人間の罪で壊して以来、生きるために労することが強いられたのです。しかし、神はその切れた関係を回復することを願っておられます。そのために御子イエスを救い主としてこの世に遣わされたのです。イエスにとってこの神のみこころを行うと言うことは、ご自分を捧げて死に渡すことでした。しかし、その従順によって私たちに永遠のいのちが与えられるのです。この神の豊かなご計画に入れられることこそ、祝福されたいのちと言えるのです。
結 論
教会は、そして個人的にもこの世に対して自分の無力を突き付けられることがあります。しかし、私たちが神の子と信じる主イエスは、全地全能の神の御子です。全ての必要を満たしてくださるいのちのパンなるイエスを示していきましょう。