メッセンジャー:仁科宣雄師
「苦難の叫びを聞かれる主」 (出エジプト記 2章1~10節)
本日の御言葉(詩篇 50篇15節)
苦難の日にわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。
Ⅰ.重い労役に苦しむ民 (1章1~14節)
ヤコブの息子ヨセフに表された神のご計画を通して、ヤコブ家族はエジプトに移り住み、神の守りと王ヨセフの庇護のもとで大きな祝福を得て、イスラエルの子孫は増え広がりました。時代は変わり(1:8)、ヨセフの功績、イスラエルの国の歴史も忘れ去られていました。70人ほどだったイスラエルの民は、400年後、壮年の男性だけで60万人にまで増大、それは神の祝福でした。が、彼らの存在は脅威と見られるようになり、王ファラオは、「彼らを賢く取り扱おう」と、決して追い出そうとはせず、奴隷化政策に転換したのでした。なぜ、神はこのような苦しみを?もし、順調に民たちが増え、エジプトでの生活が豊かなものになれば、彼らはエジプトに住み着き、カナンの地を捨て去ったでしょう。神様の祝福の約束は、カナンの地におけるものでした。神はこの苦難を、民族として力、のちの出エジプトの長旅にも耐える体力作りの時として備えられたのでした。
Ⅱ.助産婦たちの信仰 (1章15~22節)
苦しめてもなお力を増していくイスラエルの民を見た王は、イスラエルの助産婦たちに、生まれてきた子が男の子なら殺すように命じます。しかし、助産婦シラフとプアは残虐非道な王のよりも、真の神を恐れる信仰をもっていたのです。二人は命の危険にさらしながらも、歴史を超えてみわざを進められる神、主権者なる神を恐れ、男の子であっても生かしたのです。そして、ファラオの追及に対し、知恵深く返答するのでした。
クリスチャンとして、主のみこころに生きようとすればするほど、社会の反感、妬みをかうことになる現実でもあります。現実の厳しさに一喜一憂し、本当に神様はおられるのだろうかと疑い、主のみことばに力を見出せないのです。しかし、切に祈り求める時、私たちの霊の目を開き、それらの試練を共に受けて戦ってくださる主を見せてくださるのです。どのような試練に遭っても、神に訴え続け、助け求め続けること、神様は必ずそれを上回る祝福をもって報いてくださることを信じましょう。
Ⅲ.モーセの誕生 (2章1~10節)
王ファラオの「生まれた男の子はみなナイル川に投げ込め」という、新たな命令に従えず、一人の男児が両親の祈りのもと、川に流されます。しかし、水浴びに来たファラオの娘に見つけられ、助け出されたのです。すかさず、モーセの姉ミリアムが、実の母親を乳母として申し出ると、王女はそれを承諾します。幼少期は母親によって信仰の土台を築き、少年期・青年期は王子として読み書きや帝王学、リーダーシップを学びました。背後に神の御手があり、成長過程のすべてが、イスラエルを救う土台となっていたのです。水から「引き出す」という意味で「モーセ」と名づけられましが、この80年後、彼はその名のとおり民をエジプトから「引き出す」ことになるのでした。
結 論
神が与えてくださった信仰はどのような苦難の中にあっても、神の愛を注ぎ、確かな希望によって支えてくださる主と共に歩むという「生きて働く力」です。私たちのつぶやき、嘆き、悪口でさえも主を崇め、賛美できるように変えてくださるお方です。この主のみわざがわが身に表されるよう祈り求めてまいりましょう。