メッセンジャー:仁科宣雄師
「苦難からの脱出・過越し」 (出エジプト記 11章1~10節)
本日の御言葉(ヨハネの福音書 3章16節)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
私たちにとって「苦しみ」とは?苦しみを癒すものの一つに「復讐」があり、それを目標に生きることも一つの生き方でしょう。が、そこに本当の癒しがないことも明らかです。苦難の中で自分との葛藤へ導かれ、そこで本来の自分自身を取り戻せること、それが神と人に愛されるべき自分であることに気づくことを神は望んでおられます。
Ⅰ、ファラオへの警告 (11章)
エジプトで苦しむイスラエルの民をエジプトから脱出させるよう神から召命を受けたモーセは、兄アロンと共にエジプトの王ファラオの前へ行き、エジプトからの解放を交渉しました。ファラオの心はかたくなです。モーセが神の災いがくだると伝えても聞き入れず、神は9つの災いをおこしファラオに迫ります。①ナイル川が血に変わる②カエルの大発生③ブヨの襲来④アブの襲来⑤家畜の疫病⑥はれもの⑦雷とひょう⑧いなご⑨暗闇、と次々と災いに遭いながらもファラオの心はかたくなでした。そこで主は、第10の災いを予告し、それによってイスラエルの民は「一人残らず」去ることとなると言われます。
神の奇跡が絶対的なものとなるために、神があえてファラオの心をかたくなにされたのです。私たちは、納得のいかないことと向き合う中で、神が働かれている場合があることを知るならば、神の応えを祈り求め続けることができるのです。
Ⅱ、イスラエルの民に求められる信仰 (12章1~28節)
主はファラオに裁きを宣告された一方で、イスラエルの民たちには、災いから逃れるためにご自身のことばに聞き従う信仰を求められました。なぜ、どうして今の苦しみが?と叫ぶ中で、真の神を思い起こす時を与えられたのです。「家族ごとに、傷のない子羊を用意し、それをほふり食べなさい」と、細かく指定しました。そして、「その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗って」と、神の使いが長子を殺しに巡り歩く時、血がしるしとなり、その家を過ぎ越すと言われるのです。
この過ぎ越しの出来事は、イエス・キリストの救いの型と言えます。人類の苦難である罪を背負い、傷のない子羊=罪のないイエスがほふられ、その血によって、全ての人は神の裁きを受けず、救いにあずかることができるようになったのです。
Ⅲ.エジプトからの脱出 (12章29~42節)
真夜中、ついに災いがくだりました。「破滅の一撃」に打ちのめされるファラオは、その夜のうちにモーセを呼び出し、イスラエルの民を引き連れてエジプトから出て行くよう命じ、「自分のためにも祝福を祈れ」と願います。が、これが人の持つ絡みつく罪の姿です。緊迫感の中にも、神の取り計らいによって、イスラエルの民はエジプトの民から、金銀の飾りや衣服、家畜など必要な物を存分に受け取り出発することができました。この集団の中には、イスラエル人以外の異国人なども含まれていました。神の目的は地に住むすべての人々、すべての民族を祝福する事でした。
この主の裁きと救いは過去のものではありません。世の終わりがくることは確実であり、そレは一瞬です。世の人を救い出す使命を受ける私たちは、常に霊の目を覚まして備えていることを求められているのです。
結 論
神は苦難を通して自分自身と向き合うことを教えます。そこに罪にからまれ、滅びに向かう自分が見えてこないでしょうか?こんな自分を赦すために神は「神の独り子を死に渡された」ことを信じましょう。永遠に生きる者としてくださる神の愛を受け取り、感謝と喜びをもって主にお仕えする者とならせていただきましょう。