メッセンジャー:仁科宣雄師
「支え合う力の勝利」 (出エジプト記 17章8~16節)
本日の御言葉(エペソ人への手紙 6章18節)
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、 忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
今年も敬老の日を迎えます。長寿をお祝いできることは喜ばしいことですが、80歳以上の方が10人に1人という現実は、支える人の数を考えると憂いであり、大きな課題です。
教会でも同じ課題がありますが、主が託された「福音」に生きる人々、神と人を愛し、お互いに同じ目標をもって、この世に勝利していく人々が少なくなっていると言う課題です。
Ⅰ.民に注がれる岩の水 (17章1~7節)
イスラエルの民は、困難や不満に対し神のみわざを見せられながら旅を続けました。しかし、今度は「水がない、こんな所で死なせるのか?」と、モーセに訴えます。モーセは「なぜ神を試みるのか?」と、神に祈ること、期待することを教えます。憐れみ深い神は、モーセに杖で岩を打つように命じ、そのとおり岩を打つと、岩から水がほとばしり出たのです。
この岩は、キリストの型であり、モーセが岩を打ったと言うことはキリストの受難を意味し、岩から流れ出た水はキリストの昇天後に与えられた聖霊を意味します(ヨハネ7章38~39節)。
岩となるべきイエスを救い主として信じる時、私たちの人生には、決して尽きることのないいのちの水である聖霊が満ちあふれ(ヨハネ4章14節)、この主に全く信頼して歩む時、私たちはいつも聖霊に満たされ続けることができるのです。それは真の希望です(ローマ5章5節)。
Ⅱ.異民族による攻撃 (17章8節)
ついに民たちが最も恐れていたこと、神も一番心配していた異民族との戦いが起きます。神は、あえて遠回りをさせて他民族と戦える力も知恵も武器も何もなかった民をこれまで守ってきたのですが、民たちが異民族から完全に隔離されていることはできなかったのです。彼らは、イスラエルが神によって守られている民族であることを知りながらも、なおもその民に向かって、戦いを仕掛けてきたのです。罪を断ち切り、神と共に歩む私たちも同じように、サタンからの攻撃は避けることができません(ペテロ5章8~9節)。
Ⅲ.支え合う力による勝利 (17章9~16節)
80歳をすぎたモーセは、若いヨシュアを戦いの指導者として立て、若者たちは勇猛なアマレク軍と勇敢に戦います。モーセは神の杖を手に取り、アロンとフルとを連れて戦いを見下ろすことのできる丘の頂に立ちました。そして、戦場を見下ろしながら、彼の手を挙げたのです。「祈る」ためでした。モーセが祈るとイスラエルは優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になります。この戦いは、真の神と異教の神との戦いでしたから、肉体的な疲れ以上に霊的な疲れがモーセを襲います。そこで彼の手を両側から二人が支え、手をあげ続けたのです。この戦いの本当の勝敗は、モーセの祈りにかかっていたのです。
モーセは、祭壇を築き、そこを「アドナイ・ニシ(=主はわが旗)」と呼び、イスラエルに勝利をもたらしたのは、祈りに応えてくださった主の力であったことを明らかにされました。
主の教会の働きも実際に行動すること以上に祈りはもっと必要なのです。福音を伝えることは、この世のもろもろの霊との戦いです。教会の働きが共にいてくださる真の神様を礼拝し、そのみ心を行う所として地域に働きかけていくことができますように、主の愛と希望が語り続けられるように、私たちは心を一つにして祈り、この世に勝利していきましょう。
結 論
神が造られた一人ひとりを愛しぬきたいという神の歴史の中に私たちは今生かされていることを感謝しましょう。その神のみこころが実現するために一人ひとりの祈りが必要とされています。「モーセの手は日没まで下がらなかった」と、私たちはお互いに支えあいながら、最後まで祈りの手をあげてまいりましょう。