メッセンジャー:仁科宣雄師
「見ないで信じる幸い」 (ルカの福音書 7章1~10節)
目に見えないコロナ菌と戦ってきたこの3年間を機に、人や物を見なくても「言葉」があれば先に進んでいく生活が加速しています。が、信じるべき声を選び取ること、その声を聞いてどこに向かうのかを確かめることが必要ではないでしょうか。イエスは目の前で起こる出来事を通して、私たちの信仰を確かめるようにと、「おことば」をもって導かれます。
Ⅰ.百人隊長の「愛」の姿 (1~5節)
カペナウムにはローマ軍の駐留地があり、そこで、100人の兵士を指揮する「百人隊長」のしもべの一人が、重い病で命が危ない状況にありました。隊長にとってこのしもべは、愛する「わが子」の様な存在であり、胸を痛め、できることは何でもしてあげたいと動きます。イエスが神の力で病気を治されるとのうわさを聞いていた隊長は、知り合いのユダヤ人の長老たちを介してイエスに癒して頂けるよう願ったのです。頼まれた長老たちは、「彼にはその資格がある」とイエスに願い出ました。この隊長は、異邦人でしたが、自らユダヤ教の礼拝に参加し、私財で会堂を建てるほどに、神への信仰の篤き人だったのです。そして、どんな人をも「必要とする心、愛する心」を神から受けていたのでした。
Ⅱ.癒された百人隊長のしもべ (6~10節)
①真の謙遜によって(:6,7)・・・イエスは即座に助けたいと思われ、イエスと長老たちが隊長の家へ向かいますが、隊長は反対に、イエスが来られるのを遠慮するのです。自分が異邦人であることに加えて、神の前に聖くない者であること、イエスが神の権威をもたれていることを認め、こんな私があなたにお願いすることも、家にお入れすることもできないと真の謙遜をもって、力ある主の力をいただこうとしたのです。 ②イエスのことばの力を信じる信仰によって(:8~10)・・・「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください。」と、彼自身「隊長」という自分の立場を知っていました。権威あるものが部下に命じた時、その部下たちはそのことばどおりに動くものです。彼は、イエスは神の権威をもつ方であり、それゆえにおことばには力があって、お語りになった事はすべてその通りになると確信していたのです。そして、彼が信じた通り、しもべは癒されました。主はこのような「見ないで信じる信仰」を求めておられるのです。
Ⅲ.目に見えないもの確信させる信仰
イエスはローマ人である隊長の信仰を「イスラエルの中でも見たことがない」と驚かれますが、人々にあなたがたの信仰はどこにありますか?と問うているのです。イエスは、ユダヤの人々と「神の権威あるイエスのことば」を理解して欲しかったのですが、それができない、同胞として分かり合えない悲しみを覚えておられたのです。 神が与えてくださった「信仰」は、人々の能力が足りないところではなく、愛が足りないところに働くのです。神は私たちの嘆き、怖れ、不安、渇きを知って、共にいて主の愛を示し、主の愛を満たしてその傷を癒そうと働かれるのです。さらに、その主を崇め、賛美するまでに変えられることを願っておられるのです(詩篇139:14)。マリアは主のおことばを信じ、その結果を見ずして自らを「幸いな者」として賛美したのです(ルカ1:46∼55)。彼女の信仰によってイエスは全ての人を救う救い主としてお生まれになりました。
結 論
神が与えてくださった信仰は、人々を救うためです。この信仰を本当に価値あるものとするのも、神の真実を確かに表すのも私たちです。それは賛美と祈りによって表されます。神のみこころがこの地になされることを信じ、私たちが向かうべき神の国をこの世に表すために主を賛美し、祈ってまいりましょう。 |