メッセンジャー:仁科宣雄師
「生涯、主に仕える信仰」 (ヨシュア記 24章11~24節)
本日の御言葉(ヨシュア記24章24節)
私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。
「信仰」を持つ人は弱い人と捉えがちですが、聖書には「弱い時こそ神の力が表れ、強くされる」とあります。社会が言う「弱さ」と、神の前の「弱さ」の違いを知る時、自らの弱さを誇れることになります。
Ⅰ.約束の地の征服・割り当て
イスラエルの民は、信仰によってエリコを征服し、その後も続いて各地を征服していきますが、苦闘の連続でした。小さな国アイには大敗します。その原因は、民の中の一人が犯した罪(=神に聖絶すべきものを自分のものとした)によるものであり、神は怒り、アカンとその家族は聖絶されることとなったのです。神の前に隠される罪はなく、自分の中にある罪を認めることだけが、神の赦し、勝利を体験し得るのです。
また、イスラエルに対抗するため、小さな国は同盟を結び、姿を変えて言葉巧みに偽りを言い、イスラエルに近づいてきます。ヨシュアは主の指示を仰ぐことをせず、苦闘を強いられますが、その度に主の前に出て、御声を求め戦い、カナンの地を征服しました。そしてヨシュアは、12の各部族にそれぞれの地を割り当てました。
Ⅱ.カレブの信仰 14章
その土地を割り当てる時、カレブがヨシュアに申し出ます。カレブは、45年前にカナンの地を偵察に行き、強大な原住民を恐れながらも、神の約束に立って「攻め上ろう!」と民を激励して以来、神の約束を忍耐をもって信じ続けました。85歳になったカレブは、
①変わらぬ信仰・・・「わたしの今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐え得るものです」「そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々がある。…。しかし、主が私と共にいてくだされば、…わたしは彼らを追い払うことができます。」と、驚くほどの自信です。信仰は日々養われて成長するからです。(哀歌3章22,23節、第Ⅱコリント4章1節)「たとえ私たちの内なる人は衰えても、うちなる人は日々新たにされています」
②他の者とは違った信仰…カレブは現実ではなく、「神の視点」から見ることができました。信じ続けるためには戦いがあります。「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい(Ⅰテモテ6章12節)神の視点に立つ者とされることは、戦って獲得するものだと教えられます。信じるとは、性格的なものが働くとか、考えてもどうにもならないからなるようになるでしょうと言うものではなく、現実の中にひそむサタン、神の存在を私たちから話そうとするサタンとの戦いなのです。日々の神との交わりによって「勝利」は得られるのです。
Ⅱ.ヨシュアの信仰 23,24章
ヨシュアは歴史的に重要な場所シュケムに民を集め、これまでの歴史を回顧し、自分の死後もイスラエルの民が主に従い続けて歩むように決断をうながすのです。主に仕えるいう決心・応答を、民の一人ひとりに委ねます。一方で、「ただし、私と私の家は主に仕える」と宣言しました。 罪から離れて、行くべきところは「約束の地=天国」です。私たちは、常に、罪から離れるモーセの姿と、そして本当の救いを勝ち得るために戦うヨシュアの姿にあらわれる主イエス様を仰ぎつつ、約束の地を目指して、信仰生涯を歩き続けていくのです。(イザヤ40章31節)
結 論
「今日も、主の新しいみわざに期待します」と言い得るなら、生涯は希望に満ちています。外なる人は衰えますが、私たちの目が、私たちのために備えられている主の救いを見続け、主にある希望の輝きを映し出す時、内なる命に燃え続けることができるのです。永遠の祝福に与るその日まで、主にお仕えしてまいりましょう、