メッセンジャー:仁科宣雄師
「礼拝へと導く信仰」 (ヨハネの福音書 9章1~12節)
本日の御言葉 ヨハネの福音書 9章 38節
彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
私たちを礼拝へと向かわせるものは何でしょうか?礼拝は神様からの律法の一つであり「守る、守らない」とも言えるのですが、私たちが、礼拝者として神の前にひれ伏すことの豊かな恵みを確かなものとし、さらに礼拝の民が増やされることを祈り続けていきましょう。
Ⅰ.神の栄光が現わされるための「盲目」 (ヨハネ9章1~12節)
当時のユダヤ人には「病気や不幸は罪の報い」という因果応報の考えがありました。イエスの弟子たちも同様で、道端で物乞いする人を見て「彼が盲目で生まれたのは誰の罪のせいですか?」とイエスに尋ねました。
イエスは、「罪とは無関係」と断言し、「神のみわざが現れるためです」と、彼が盲目である「目的」を明らかにし、彼の目を癒されたのです。イエスはご自分の唾で泥を作り、その人の目に塗って、それをシロアムの池に行って洗いなさいと…。彼は言われた通りにすると、目が見えるようになったのです。イエスが直接手を触れたこの時点で、彼は何かしら不思議な力、神の力かもしれない、そうあってほしいと信じ、池まで行ったのではないでしょうか?泥や池の水に力があったのではなく、主のことばに期待して従ったことで目は見えるようになったのです(:11)。それは驚くべき方法であり私たちの救いとなる「主の十字架と復活」も驚くべき、不可解な神のみわざです。神は、私たちの思考回路に現れてくださり「ただ信じて、救われると言う奇跡」を行われるのです。
Ⅱ.神のみわざを見ることができないパリサイ人 (ヨハネ9章13~34節)
その癒しが行われたのは安息日だったため、律法に違反したと言うこととなり、癒された人はパリサイ人たちから「誰が癒したのか?」と事情聴取を受けます。彼の話を聞いて、パリサイ人は、イエスを律法に違反した罪人とみなしますが、同時に「罪人にこんな奇跡は行えない」と言う声も上がり、彼らは分裂し始めたのです。「律法を守らない罪人が目を治せるはずがない」とイエスを罪人だと決めつけ、実際に起こったことを認めようとはしません。癒された人に何度も本当のことを言うように迫りますが、事実は変わりません。反対に彼らが幾度も迫られたことで、イエスへの見方が変わりました。最初は「イエスと言う名前の人だ(11節)」→「預言者だ(17節)」→「神から出ておられるお方だ(31~33節)」と、確信をもったのです。パリサイ人たちの目は、イエスの奇跡を「神のみわざ」と見ることができず、自分たちの意に沿わないと、癒された人を社会から追い出すのでした。イエスは、そんな彼らに「『私たちは見える』と言っているあなたがたの罪は残ります(41節)。」と…断罪するのでした。
Ⅲ.礼拝へと導かれる信仰 (ヨハネ9章35~41節)
イエスは、追い出された彼を見つけ出し、「あなたは人の子(メシア)を信じますか?」と問いかけます。彼はわからないながらも「信じたいです。その方はどなたですか、教えてください」と願ったのです。イエスは、彼の信仰の目を開かれ、ご自身こそ救い主であることを明かにされると、彼は「主よ、信じます」と告白し、イエスを礼拝したのです。私たちは自分の健康状態を気にするように、霊的状態を気にしているしょうか?この世のわざに惑わされやすい霊的盲目であることを認めつつ、真理の光を求めて主の御前にへりくだるなら、主は霊の目を開き、神のみわざを見させてくださいます。主の癒しがその人を変えたように(8~9節)、主のみわざを喜び、心から主を礼拝する者へと変えられるのです。私たちはお互い、弱さや欠けをもつ者ですが、それらが神の御手の中で変えられて、用いられていく、神の栄光を表す者とならせていただけるのです。
結 論
私たちは、みことばを積み重ねていく中で、賢くなるのを喜ぶのではなく、神様の豊かな愛と確かな赦しと体験し、感動し続けたいものです。イエスを信じることは、主のことばに聞き従い、「私の救い主」として礼拝することにほ かなりません。「礼拝の民」とされた恵みを感謝しつつ、その恵みを証ししてまいりましょう。