メッセンジャー:仁科宣雄師
「感謝を喜ばれるイエス」 (ルカの福音書 17章11~19節)
本日の御言葉 ローマ人への手紙 12章2節
心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。
そうすれば、・・・ 何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
日本でもコロナ感染症において、多くの人が精神的にも大きな痛みを覚えましたが、感染症における厳しいとらえ方は歴史の中で多くあります。「ツァラアト」とは、ヘブル語のタカナ表記ですが、重い皮膚病とも表される病いです。この病は神から呪われた病だという偏見によって、差別されてきた病気でした。
Ⅰ.「ツァラアト」を癒された10人 (11~14節)
イエスの時代、「ツァラアト」に冒された人は、他人に近づくことは禁じられ、他人が近づかないように自分で「私は汚れている」と叫ばなければならないこと、そして町の外で暮らさなければならないなど、数々の規制がありました。また、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でしたが、社会から拒絶された彼らは共に生活することを余儀なくされ、痛みと苦悩、深い絶望の中で生きていたのです。イエスは、その村をあえて通られました。彼らはイエスを見て、遠くから「先生、私たちをあわれんでください」と叫ぶと、イエスは彼らに「行って、祭司に自分の身体を見せなさい」と命じられたのです。この病を診ることは祭司に任されており、癒された人は共同体の中に戻ることができたのです。
彼らはまだ癒されてはいませんでしたが、イエスのことばに従って祭司のもとへと向かいました。するとその途中で彼らは癒されたことを肌で感じたのです。一刻も早く祭司にきれいになった体を見せて、社会復帰したいと願いつつ、急いだことでしょう。
Ⅱ.感謝をささげたサマリヤ人 (15~16節)
10人のうちの1人だけが、自分が癒されたことがわかると大声で神をほめたたえながらイエスのもとへ帰って来たのです。自分は「サマリヤ人」だから癒されることはないと負い目を抱えていた彼でしたが、イエスの深い愛と恵みを知って感謝したのです。完全に癒された彼はイエスに近づくことができ、足もとにひれ伏し、感謝しました。
「良きサマリヤ人」や「永遠に生ける水をもらったサマリヤ人」の記事はよく知られており、信仰の歩みを正され、導かれる所ですが、この箇所は主への奉仕の原点とも言えます。谷昌恒氏は戦後、家庭を失った子どもたちのため、非行のため社会から追い出された若者たちのために生涯をかけましたが、その原点はこのサマリヤ人の姿でした。
Ⅲ.「癒し」以上の「救い」の恵み (17∼19節)
イエスはサマリヤ人を「癒された」以上に「救い」を宣言し、「立って、行きなさい」と、彼を通して「神の国」の力、祝福がさらに周りの人々に及んでいくことを信じて遣わされたのです。私たちの強い祈りを聞いてくださる神は、それ以上に私たちが救いに関して求めることを願っておられます。主が私たちに与えたいと思われている最大のものは「救い」なのです。そのために十字架の道へと進まれるのです。イエスの十字架の死によって「この世の死」に打ち勝ち、よみがえられた主と共に新しい命に生かされていることを心から感謝しましょう。私たちは日曜日を主の日として甦られた主を覚えつつ、感謝をささげ、礼拝するために共に集まり、喜びを共にするのです(ローマ12章1節)。
結 論
多くの人が自分の願いが聞かれると感謝をしますが、生きるための必要が、願う前か ら与えられていること、さらには永遠に生きるための命が主にあって備えられていることを覚え、感謝しましょう。霊の目が開かれ、主の前に汚れた自分を認めて初めて主への感謝が湧き出るのです。この世の価値観が変えられ、主に近づける者とされた喜びは、私たちを主の証し人として用いてくださることを信じましょう(ローマ12章2節)。