メッセンジャー:仁科栄子師
「安息日の主」 (ルカの福音書 6章 1~11節 )
カレンダーの日曜日は、左端か、右端か…日曜日は週の始まりか、週の終わりか…それぞれの生活によって考え方が違うようですが、聖書においても旧約から新約においてその位置が変わってきました。しかし、その本質は変わることなく、人間に必要な日です.
Ⅰ.安息日の主であるイエス (1~5節)
「安息」とは、「中断すること、停止すること」という意味があります。イスラエルの民は、神が天地創造の7日目にわざをやめられ、その日を祝福し、聖なる日とされたこの日を「安息日」とし、十戒の「安息日を覚えてこれを聖とせよ」に従い、一切の仕事を止めて休み、神を礼拝してきました。エジプトでの奴隷状態から、神が救い出してくださったことを記念し、主を礼拝するのです。しかし、パリサイ派の律法学者たちは、その戒めに加えて、生活上の細則を造り、それを形式主義に変えてしまったのです。 ある安息日のこと、空腹であった弟子たちが畑から麦の穂を摘んで食べるのを見ていたパリサイ人は、弟子たちが穂を摘んで、手でもんだことを「労働」だと批判したのです。イエスはこれに対し、ダビデ王の権力を示した出来事をとりあげて反論なさいました(:3,4)。安息日は神が人間を祝福するために定められた日であり、決まりを守って自分を正しい者とし、守れない人を攻める日ではない。神殿に形式的に供え物をすることが、安息日の眼目ではなく、神の前に出て人を救うべく、神の恵みを受けるべく祈ることが、安息日の精神であることを教え、「人の子は安息日の主です(:5)」と宣言されました。主イエスが神と等しい権利、安息日を支配する権威をもっているとの宣言です。
Ⅱ、喜びの安息日 (6~11節)
また、別の日の安息日、イエスは会堂において右手の不自由な人の手を癒されました。パリサイ人たちが、もしイエスがこの人を癒せば、明らかに律法違反として訴えることができると目を光らせているのを知ってのことでした。イエスはあわれみをもって男性の手を癒されて、「善を行うこと」「命を救うこと」を実践し、安息日の正しいあり方を示されました。この安息日は、癒された人にも、その場で主のみわざを見た人たちにも、喜びがあふれる日となりました。イエスは、「ただ手を伸ばしなさい」と言っただけであって、医療行為と言う労働をなさったのではありません。パリサイ人たちは、イエスの奇跡を起こす力は認めても、神であられることを信じようとはせず、陥れることばかり考えて、共に喜ぶことができませんでした。イエスは安息日に「何をしてはいけないか」に関心を持つよりも「何をするべきか」を問われます。主のみわざを共に喜ぶ日こそ安息日なのです.
Ⅲ.「聖さ」が力となる安息日
安息日を「聖」とすること=「主」とすること、神だけを意識して見上げなさいということです。日曜日礼拝を捧げる時間を聖別することは「神と自分」との問題です。主の時間を選び取るならば、神のご支配のもとで自分自身の賜物を考え、使い、行動する力を神が与えてくださるのです。何の取柄もない私であっても主を誇りとして生きる時、神が前面に表われてくださり、この世に聖なる神の力が働くことを信じましょう。
結 論
私たちは今、主が罪と死に打ち勝って復活された日曜日を安息日として守っています。主は生きるための全てが備わった「エデンの園」の祝福に帰ることを望んでおられます。安息日を中心とする生活の真ん中に主がおられ、生きるべき新しい力に満たしてくださる主の恵みを心から賛美し、感謝いたしましょう。 |