メッセンジャー:仁科宣雄師
「見える者とされた祝福」 (ルカの福音書18章35~43節)
(マタイ20章29~34節、マルコ10章46~52節)
本日の御言葉
その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、
民はみな神を賛美した。
ルカの福音書 18章43節
「病」を通して教えられることは多くあり、時間をかけて加えられてもいきます。イエスは多くの病人を癒されましたが、ただ病を治すだけでなく、それぞれの人の人生に深く関わっており、その時、方法に意味がありました。
Ⅰ、イエスを叫び求める盲人バルテマイ
盲人である彼は、道端で物乞いをして生きていました。決してその人生を受け入れ、良しとはしていなかったようです。イエスが多くの病人を癒されたという話は彼にも伝わっており、そのイエスが自分の前を通り過ぎようとしていることを聞いて、「私をあわれんでください」と叫んだのです。人々は黙らせようとしますが、イエス以外に自分を癒せる人はいない、今を逃したら次にいつお会いできるかわからないと思うと、彼も必死です
Ⅱ.信仰による癒し (マルコ10章49,50節)
その叫びを聞いてイエスは立ち止まり、彼を「呼び寄せ」ます。直接「私に会う」という体験をさせようとされたのです。彼を応援する人々もいて、「心安かれ(元気を出して!)、立て、汝を呼びたもう」(文語訳)と彼を送り出します。それを聞いたバルテマイは、「上着を脱ぎ」=長いマントのようなもので、半分はおしりの下に敷いて、もう半分で体を覆って、と生活の一部でした。が、それはもう要らないと思ったのでしょう。喜んでイエスのもとへと来たのです。ここではまだ癒されてはいません。ただ、「イエスが呼んでおられるから…」の言葉で、心配は消え、軽やかにジャンプするまでになったのです。
イエスは「何をしてほしいのか?」と尋ねます。落ち着いて彼が願っているものが何であるかを告白させることで、イエスへの信仰を表明させ、人々への証しとなることを願われたのです。彼は「主よ、目が見えるようにしてください」」と答えます。ある写本には、「私があなたを見ることができるように」いう言葉が続きます。それは肉眼で見る以上に、霊的な意味で「メシアであるあなたを見る=知ることができるように」との言葉です。イエスは彼に深い思いやりをあらわし、目に手を触れて癒されました。しかし、「あなたの信仰があなたを救いました」と、イエスの力によってではなく、バルテマイが神の力を引き出して癒されたとおっしゃられたのです。
Ⅲ.イエスについて行く人生
癒されたバルテマイは、「道を進むイエスについて行き」ました。この一言に彼の喜びや感謝がこめられています。自分のことだけに執着していた彼の心が解放された時、イエスに望みをかけて生きる人生に変えられたのです。主に開かれた目は、自分だけでなく、多くの人の苦しみ、悲しみ、喜び、楽しみが見えてきます。同時にそれらの中に隠されている人間の罪の姿。その罪の姿が自分の中にもあること。そしてそれを癒すためにイエスが十字架に向かわれること、それがイエスにある神の御力であり、神の権威、そして神の愛であることが見えるようになるのです。
結 論
自分の弱さに絶望し、神を呼び求め、神に目が開かれたことを喜んで歩む姿を神は用いられます。人々はその歩みの中に主が生きて働いておられることを見、共に神を賛美させるものとしてくださるのです。信じましょう。