メッセンジャー:仁科宣雄師
「主に用いられる心」 (サムエル記第一 15章10~23節)
本日の御言葉
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
ローマ人への手紙 12章21節
一面真っ黒な絵を細いペンで削っていくと、下に塗った色が出てきて、きれいな絵に仕上がる、スクラッチアートというそうですが、楽しいものです。同じように初対面での印象が悪くても、お互いの心がわかり、信頼し合えるようになれると感謝です。
Ⅰ.神が選んだ次なる王ダビデ 16章1~13節
サムエルがサウルのことで深く悲しむのを知りながら、主は次の使命を与えられました。主が選んだ新たな王に油を注ぎ、あらかじめ任命しておくことでした。まだ強い権力を持つサウルを差し置いて、そんなことをすれば命をも狙われると恐れるサムエルに主はその対応策をも教え、べツレヘムに住むエッサイのところへ遣わしました。「人はうわべを見るが、主は心を見られる」と言われる主が選んだのは、羊の番をしていた末息子ダビデでした。神の思いは人の思いよりもはるかに高く、人には計り知れないものなのです(イザヤ55章9節)。彼が実際に王となるのは15年後・・・。様々な試練を通して、共におられる主の声を聞き、信頼し、従っていくことを学びます。
Ⅱ.サウルに仕えるダビデ (14~23節)
主の霊はサウルから離れ去り、「神からの災いの霊」に彼は苦しみます。それは、主が彼をもう一度主に立ち返らせるため、またダビデを用いるという主のご計画でもありました。サウルは家臣たちの提案で(16章18節)、音楽に秀でたダビデを呼び寄せ、仕えさせます。「神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデが竪琴を弾くと、サウルは元気になり、災いの霊は彼を離れ去る(23節)」のでした。ダビデはサウルに仕えながら、将来の王となるべく基礎訓練を受けることができたのです。
ダビデにとって羊飼いとしての毎日は、私が羊の世話をしているというより、主が私に羊を託してくださっているという思いだったでしょう。その思いとサウルに仕える思いは同じです。私が今、主に選ばれて主の願われることを行っているということです。
Ⅲ.王として用いられるダビデの心
神がイスラエルの王にふさわしいとしたダビデの心とは、サウルの失敗から見ると、聞き從う心、耳を傾ける心でしょう。彼の一生を見ると、「さすが神の選んだだけある人」とは言い切れません。①ウリヤの妻バテシェバと性的関係をもった時、その不倫をうやむやにするために、夫のウリヤを兵士として激戦地に送って敵に殺させました(Ⅱサムエル11章)。しかしその罪を預言者ナタンに指摘された時、言い訳をせず、その罪の罰としての災いの宣言をそのまま受け止めたのです(Ⅱサムエル12章10~14節)②兵の登録人数を数えるという罪を犯しますが、その罪に気づき、祈り、その罰を自らにと願うのでした(Ⅱサムエル24章10節)。どんなに高い地位に昇り詰めても、主の前にひれ伏し、自分の心を探り、語られる主のことばに耳を傾け、その声に従う心を失うことはなかったのです。詩篇51篇で、たとえ王であっても、神に赦されなければ生きていけない一人の罪深い小さな者であることを公に告白しています。神は罪を犯したその罪を重く見ますが、それ以上に悔いる心を蔑むことなく(51章17節)、用いられるのです。
結 論
人間関係において弱さを覚えるお互いですが、主によって自分の罪を示され、赦される恵みを頂いています。この恵みを覚える時、心は喜びにあふれ、主の力に満たされるのです。そして、それは誰かを生かす光、力となるのです。日ごとに自分の心に住んでくださる主を確信し、今日主は私に何を望んでおられるでしょうか?と、求め続け、祈り続けてまいりましょう。