2024年4月21日 主日礼拝メッセージ 「隣人を愛する力」

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「隣人を愛する力」             (ルカの福音書10章25~37節)

今日のたとえは、しばしば文脈から切り離され「困っている人を助けましょう」という博愛 主義の教訓のように語られることが多いところですが、イエスのたとえを通してその真意 を読み取り、「あなたも行って同じように・・・」でき得る秘訣を学びましょう。

Ⅰ.律法の専門家の問い    (10章25~29節)

ある律法学者がイエスに「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか?」 と尋ねました。彼は、「自分は『神と隣人とを愛しなさい』という律法を完璧に守っている。 さらに何をせよと言うのか」とイエスを陥れようとしての質問でした。イエスはその模範解 答を認めつつ、それを「実行していないのが問題」と返答します。イエスは、誰も律法を 完全に実行することはできない=律法を行うことでは永遠のいのちを受け継ぐことはでき ない。イエスを信じる信仰によってのみ恵みによって救われることを教えようとされました.  律法の専門家は、イエスに「私の隣人とは、誰ですか?(私はそれを実行できている)」 と問い返します。彼を始めユダヤ人たちは、同胞のユダヤ人だけが「隣人」であり、「そう でない人(異教徒やサマリヤ人)」は対象外と区別して、愛を表していたのです。それが、 律法が示している「愛」そのものの理解を誤っていると、イエスは指摘したのです。

Ⅱ.良いサマリア人のたとえ     (10章30~35節)

イエスは「真の愛」の姿をたとえを通して示されます。エルサレムからエリコへ下る「流血 の道」と呼ばれる危険な道。そこを旅していた一人のユダヤ人が、強盗に襲われて瀕死 の状態で道に倒れていました。そこに祭司、次にレビ人が通りかかり、その倒れている人 を見ますが、二人とも道の反対側を通り過ぎて行ったのです。彼らは襲われた人は既に 死んだと思い込み、神に仕える身である自分が死体に触れて汚れたなら仕事ができなく なる、また、自分も襲われるかもしれないと、なすべきことを知りながら通り過ぎたのです。 3人目にサマリヤ人が通りかかります。ユダヤ人とは歴史を通して犬猿の仲です。が 「かわいそうに思い」駆け寄って介抱し、さらに宿屋に連れて行って傷の手当てをさせ、その代金を支払い、足りなければ追加すると、真心をもって寄り添い、見返りを求めずに実行したのです。憐れみとは、内なる存在が深く感動し奮起させられるという観念であり、同情や共感とは違う、神が私たちに対して感じられる感じ方を言い表す言葉です。

Ⅲ.隣人になる得る力    (10章36~37節)  

イエスは、最後に「隣人になったのは誰か」と問われました。助けを必要としている人が 私たちの人生を横切る時、その人は新しい隣人です。それが見知らぬ人、敵対する人 となれば、神の思いである「憐れみ」によらなければ愛を示すことはでき得ないのです。 道端で倒れていた旅人は、生きる目的を失い、争いや苦悩や挫折感、罪責感、孤独 感で心が息絶え絶えになっている私たちの姿です。そして、サマリヤ人は主イエスです。イエスは私たちの隣人となって、自らの手を取って悪から引き離してくださり、介抱し、宿代どころか、いのちの代価を払って私たちを癒し、立ち上がらせてくださるのです。神の憐れみ、深い心に限界はありません。私たちが真剣に隣人になりたいと願う時、その大きな心、無条件の愛を引き出すことができるのです。

結  論

私たちを救うために私たちと同じ目線で生きぬかれた 勝利者イエスを見上げて生きることは大きな力です。見上げたその目線を下ろし、周りを 見る時、全ての人に主のまなざしを向けられるよう、日々、主からの愛の力をいただきつ つ、その愛を表してまいりましょう。 

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