メッセンジャー:仁科宣雄師
「私たちのための祈り」 (マタイの福音書 6章9~15節)
本日の御言葉
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。
マタイの福音書 6章13節
人は生まれた時から祈られて成長していきます。幸せを願う祈りがすべて聞かれたなら…?今、人間の罪の姿は明らかでなり、それをとどめる力はないのです。ただ、神はそのような世界のために祈り続けておられ、私たちにも求めておられます。
「私たち」の祈り
主の祈りの後半は「私の」ためではなく、「私たちのため」です。「私たち」…その中心には自分がいて、そして神が造られた全ての人のための祈りということです。
①「日ごとの糧を今日もお与えください」と、日常生活における物質的な祈りです。食料が無いから祈る、有るから祈らないというものではなく、「与えたまえ」という祈りは、詩篇24篇「地とそこに満ちるもの。世界とそこに住むものは主のもの」という告白と共にあるのです。世界の全てを造られ、支配されておられる主のものの中から私たちに必要なものをお与えくださいと祈る必要があるのです。「日ごとの」と訳される言葉は、「次の=翌日の」、また「私になくてならない」という意味で、「貧しくもなく、また富もせず、私になくてはならない食物で私を養ってください(箴言30章8節)」というみことばと関係があります。「今日も」とは、これまでも与えて下さったという事実をもとに「今日も」の積み重ねが明日へとつながります。明日のことを思いわずらうなと言われていますが、神ご自身が明日のことも考えていてくださることを覚えましょう。
②「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、負い目のある人を赦しました」と、「負い目」と言い表されているように、対人関係における倫理的な祈りです。主の祈りでは、条件付きで赦してくださいと祈っているようで理解しにくい祈りとなっていますが、「我らがゆるすごとく」が「我らがゆるしたように=すでにゆるしました」という意味だと分かると理解しやすいです。私はゆるせないけど、私のことはゆるしてください、と言うのが人間の現実ですが、ゆるした者こそゆるされるのです (6章14~15節)。「負い目、罪、負債」と訳されていますが、負債は「行い」で償うことができるでしょう。償うことができない罪、負い目は「心の思い」によるものです。私たちは、自分の中にある罪を認められないゆえに「ゆるし」を求めることの難しさを覚えます。本当は自分で分かっているのでどこかでごまかしているのです。神の前に罪を認め、赦されたなら、喜びと共に心と魂の平安が与えられ、人との平和が生み出されるのです。
③「試みに会わせないで、悪からお救いください」と、神と悪魔が戦う霊的な祈りです。「試み」には「試練」と「誘惑」の意味があります。試練は喜びに変えていくことも可能なのです。しかし、「誘惑」と「悪」はつながっています。悪魔の誘惑は、ただただ人間を神から離すという目的であり、その結果は「滅び=死」です。「あわせないで」という言葉は「引き込まないで」と言う強い意味があります。私たちが日ごとの糧を与えられました、罪の問題も主にあって解決します、そのような時こそ悪魔は巧みに私たちを悪へと引き込むのです。ですからいつも神を選び取ることができるようにと祈るのです。そして、大切なことは求めたなら、その求めにつながる「行動」へと導かれるということです。ここまで祈ると、主が目の前にいてくださり、賛美と希望が溢れでます。
結 論
忙しく過ぎていく時間の中で、様々な誘惑から、自分にかかわるすべての人々の体と心、そして魂を守るために、主が教えてくださった「主の祈り」を祈る時間を聖別し、大きな奉仕として主にお捧げしてまいりましょう。
