2024年11月17日 教会献堂34周年記念礼拝メッセージ 「イエスの栄光の姿」 

メッセンジャー:仁科宣雄師

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「イエスの栄光の姿」            (ルカの福音書 9章28~36節)

本日の御言葉(ルカの福音書 9章35節)
 これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。

自分が尊敬する人、立派な人を「神」とし、「後光が指している」と表現されるように、背後から聖なる光が発せられているように見えることがあるようです。その光は、「尊い」「すごい」で終わることなく、生きていく上で「力」となっているのではないでしょうか?

Ⅰ.祈りのうちに光り輝くイエス      (28~29節)

イエスは「自分が必ずエルサレムに行き、多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に甦られる」と宣言されて1週間後、祈るために弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登られました。神の子であっても、父なる神のみこころを求め祈りの時を必要としました。私たちも時間、場所を聖別して祈りの時を持つことが必要です。
 「イエスが祈り始めると、御顔の様子が変わり、その衣が白く光り輝いた」と、イエスのうちにある「神の栄光」が輝き出たのです。これこそ「神の子だ!」と思わせる姿です。眠気を誘う夜の暗闇以上にイエスを取り巻く「この世」は暗黒でした。その暗黒に対してイエスは祈られたのです。そこでイエスは輝かれたのです。私たちも、魂を追い求めて祈り続ける時、神が私たちを輝かせ、証し者として用いてくださることを覚えましょう。

Ⅱ.第2の出エジプトを導くイエス      (30~31節)

変貌されたイエスは、旧約を代表する指導者モーセと預言者エリヤの3人でイエスの「最期」について会話をします。通常、人の肉体的、霊的死は「サナトス(ギリシャ語)」が使われますが、ルカは、「最期」と言う語に「出発、脱出、この世を去ること=死」を意味する「エクソダス」を用いています。これは旧約の「出エジプト」を指している言葉でもあります。ルカはイエスが「第2のモーセ」として、罪と悲惨の奴隷となっている神の民を救いに導くためにエルサレムへと向かわれる・・・、イエスの十字架を単なる「死=終わり」と理解するのではなく、私たちの救いのための新しい出発の時と理解したのです。
 人間的に見れば、イエスが栄光の姿を見せて天に昇られることで、弟子たちに希望を与えることができたでしょう。しかし、実際はご自身の死の姿を覚えさせたのです。これからうけようとする受難こそが、イエスの持つ本質=内から出てくる「きよい愛の栄光」であることを教えられたのです。
 「死」は忌み嫌うものとされていますが、自分の死に対して明るい光の中で話ができるのがクリスチャンでしょう。「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しい身体を、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます(ピリピ3章21節)」と、この世での働きを終える時、私たちをご自身の栄光で輝かせ、同様の姿に変えるために、イエスが先だってこの世から出て行かれるのです。 

Ⅲ.天からの声      (32~36節)

この時、神の臨在を象徴する雲が湧き起こり、神聖な恐怖に包まれました。ペテロたちはその雲の中から「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」という声を聞いたのです。イエスは神に特別に選ばれたメシアであり(詩篇42篇)、イエスの語ることばが神のことばであり、このイエスの中にこそ主なる神のご意志があることを意味しています。「彼に聞け」とありますが、イエスは決して神の権威をもって、「真理」を押し付けるようとはありませんでした。ご自分の使命を全うすることで=身をもって語られたのです

結 論 

 私たちはイエスの生涯を通して「栄光の光」を見ることができます。その光によって私たちを導き続けてくださるイエスの御声に従わせてくださいと祈り求めていきましょう。

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