メッセンジャー:仁科宣雄師
「柔和な王としての入城」 (マタイの福音書 21章1~11節)
本日の御言葉
「見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。」
マタイの福音書 21 章5節
春が待ち遠しい時期を迎えました。今年の「灰の水曜日」は2月18日、主の十字架と復活のために備える40日間の始まりです。主の前に自分を見つめる時としましょう。
Ⅰ.預言が成就するために (ゼカリヤ 9章9節)
神は罪に苦しむ人間を見ながら、預言者を通して神のことばを伝えていました。その言葉の多くに「メシア預言」があり、イエスの生涯において成就しています。ゼカリヤはイスラエルの国が滅び、神殿再建も中断している時代に「王がやってくる」と言う希望のメッセージを語りました。それは軍馬にまたがって颯爽と敵を打ち倒す王とはまるで対照的な、子ロバに乗ってくると言うものです。「柔和な方」の原語は、「苦しめられる方」「へりくだった方」と言う意味もあります。神は、「武力で支配する王ではなく、徹底的なへりくだりと苦難によって平和をもたらす王がやってくる」と。そして、イエスご自身、この預言にある「へりくだり」と「くるしみ」は、十字架刑にあらわされる。それによって、すべての人々に救いがもたらされると、自覚されていたのです。「柔和な人は幸いです。彼らは地を受け継ぐであろう」と、教えられた主イエスご自身の歩みによって、神の国は建てあげられました。そして、それを信じる私たちに同じ祝福を与えてくださるのです。
Ⅱ.受ける苦しみを知りながら進むイエス (マタイ20章17~19節、21章1~4節)
過ぎ越しの祭りが近づいた頃、イエスと弟子たちはエルサレムに向かわれますが、イエスにとって今回の過ぎ越しの祭りには特別な意味がありました。「神の時」が近づいたこと、そして、その時起こることをご存じでした。しかし弟子たちにはその意味が通じてはおらず、彼らの関心は自分たちの内で誰が一番偉いかということでした。一緒に歩きながらもイエスが考えておられることとは深い溝があったのです。私たちも主イエスと共に歩きながらも、イエスのみ心とかけ離れていないでしょうか?イエスたち一行がエルサレムの近くにある村に入られると、イエスは2人の弟子を呼び、「子ロバを連れてくるように、誰かに何かを言われても、『主がお入り用なのです』と言えば、子ロバを渡してくれるから」と告げました。イエスの預言者的な力が現れています。王としての権威をもっての要請ですが、ゼカリヤの預言の成就させるためでした。
Ⅲ.賛美の先にある声を知りながら進むイエス (21章5~11節)
子ロバに乗って現れたイエスを、多くの群衆が「王」として迎えます。「ホサナ=お救いください」という意味ですが、王としてローマ帝国を制圧し、ダビデの時代のような国を再建してほしいというものでした。エルサレムに入城すると民や宗教指導者たちは動揺し「この人は誰だ?」、「預言者イエスだ」と答える人など、イエスを神の子、救い主として迎え入れる人はほとんどいなかったのです。そして歓声をあげていた人々の声は「イエスを十字架につけろ!」という声に変わります。イエスは神でありながら、私たちの単純な喜びや失望、そして妬みや自分の知識に頼る弱さを知るために、あえて人としてお生まれになられたのです。そしてその生涯の最期、私たちが弱さゆえに滅びてしまわないようにと、ご自身を十字架へと向かわせるのでした。
結 論
私たちが「私の願いをかなえてくれる柔和な王」ではなく、「私の罪のために十字架の死までへりくだられる王」を求める時、心は燃やされ、この真の王なる主に従おうとの決意が与えられます。この「柔和な王」を求めていきましょう.
