メッセンジャー:仁科宣雄師
「主イエスが教えられた祈り」 (マタイの福音書 6章1~10節)
本日の御言葉
天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
マタイの福音書 6章9節
日本人にとって祈りとは?祈ると心が落ち着くと言われるように、「神」という存在は、私たちの「心」に働きかける力があるということでしょう。「主の祈り」は、「祈る」というよりも「唱える」という形で全世界で祈られています。その祈りの意味を深めましょう。
Ⅰ.マタイとルカが記す主の祈り (マタイ6章9~13節、 ルカ11章2~4節)
二人が記す「主の祈り」は、それぞれが集めた資料をそれぞれの神学と目的に従って編集されています。ルカは、エルサレム(=ご受難)に向かわれる途中、これまでいつも祈っておられるイエスの姿を見てきた弟子たちの「祈ることを教えてください」との求めに対しての答えとして簡潔に記し、さらに続いて祈りの大切さを語ります。マタイは、5∼7章の「山上の教え」の中に組み入れ、「このように祈りなさい」と教えています。6章でイエスは、人々が施し、祈り、断食を熱心に行っているのをご覧になり、「善行が偽善になっていないか?」と問いかけます。そして「祈り」に光を当てて、①偽善者たちのように、目立つ場所で人に見せるための祈りをしないように→祈る自分を信仰深いと考えて、その姿を自慢するかのように祈ることを戒めます。②祈る時は、隠れたところにおられる神だけに心を向けて祈るように→集中しなければ神は見えず、その御声は聞こえません。一人になって神を見出し、祈るのです。③異邦人のように同じ言葉をただ繰り返し、くどくど祈らないように→どのような言葉を使おうかと、その心が神ではなく人に向かうと、神に祈る喜びは失われてしまいます。彼らは「自分で報いを受けてしまっている」と、人から褒められた時点で目的は達成され、それ以上神からの報いは受けられず、恵みに漏れることを教えるのです。
Ⅱ.父なる神への呼びかけ (マタイ6章9~10節)
「天にいますわれらの父よ」という呼びかけはユダヤ人特有の表現です。が、このことばの真理は、私たちの心を地上から高く天へと引き上げます。私たちは神の被造物にすぎません。その造り主を知らないという私たちは神の前には罪人です。しかし、神は私たちを最後まで愛し抜きたいという思いで、イエスの十字架を通して、私たちの罪を赦し、神の子どもとしてくださるのです。「父」とは、当時の名誉と尊敬に値し、権威ある位置を占めると同時に、慈愛に満ちた、面倒見の良い姿です。この父の愛に信頼して、「子として従います」という思いを含めて呼びかけるのです。
Ⅲ.神のための祈り (マタイ6章9,10節)
「御名が聖なるものとされますように」神だけが唯一、特別なお方、聖なるお方としてその名を唱えられるように、天の父だけに誉れ、賛美があるようにとの祈りです。このように祈らなければ、気が付くと、あの人こそ、自分こそ特別だと思ってしまうのです。「御国がきますように」あなたの王国、神の御支配による国が、やがてどこから来るように・・・ではなく、今、この世で起こされますように、との祈りであり、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」神が御心を進めるのを、私たちの思いが邪魔をしてはいないでしょうか?私たちの行動の一つ一つを、神が喜んでおられるかどうか、見直してみましょう。これらの祈りによって、神の力を引き出せるのです。
結 論
祈りとは、神だけに心を向け、神と過ごす時間です。大切な人との大切な時間は、何にもまして喜びと平安の時間となることを神は望んでおられます。秋空を見上げて胸いっぱい空気を吸い込むように、心を神に向け、親しく呼びかけ、神の備えておられる祝福を見上げて心を満たしていただきましょう。
